上野村村長・黒澤丈夫さんのお話

(平成12年12月5日「NHKラジオ深夜便 心の時代」より)
『御巣鷹の尾根』

   
  
                

    
黒沢丈夫村長  
12月5日火曜日、時刻は午前4時5分を過ぎました。 
ラジオ深夜便、今夜の担当は遠藤ふき子です。この4時台は、心の時代です。
今日と明日のこの時間は、群馬県上野村の村長・黒澤丈夫さんにお話頂きます。
第1回は、『御巣鷹の尾根』です。
上野村は群馬県の西南の端にあり、東西は16km、南北は15kmの広い村です。
南隣は埼玉県、西隣は長野県で標高1000mから2000mの山々に囲まれています。
黒澤丈夫さんは、86才です。群馬県立富岡中学校から海軍兵学校に進み、昭和11年に卒業して、戦闘機の搭乗員になりました。太平洋戦争中は、ゼロ戦に乗り、指揮官として参謀として戦いました。海軍少佐で戦争が終わり、郷里の上野村に戻りました。
昭和40年から連続して35年、上野村の村長を務めています。
昭和60年8月、日航機が上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が亡くなりました。
聞き手は、ラジオ深夜便心の時代制作グループの中野正之ディレクターです。


中野:昨日、藤岡から上野村に来ました。藤岡から13里だそうでおよそ50km、十石街道をバスで来たんですけど、昭和60年、日航機が御巣鷹の尾根に落ちてその事故の後、遺族の方がどんな思いでこの十石街道を御巣鷹の尾根に向かって行かれたかと思うと、胸が詰まるような思いがした訳ですが、日航機が御巣鷹の尾根に墜落した日、黒澤さんは何処にいらしたんですか?

黒澤:丁度ですね、墜落した時刻ぐらいに私は東京(国道整備について建設省への陳情)から帰って、うちに着いた。
玄関に入った時ぐらいに、後から調べてみると、飛行機が墜落していた様に思います。
孫が見ているテレビにちらっと目をやりましたところね、飛行機が落ちた。
これは、大したことが起こったなと思っているうちにですよ、今度は詳しく、日航の大型機がですよ、墜落したと。
どうも、落ちた所がですよ、東京に近い方が秩父あたりから、遠い方は長野県の佐久、この辺に落ちたらしいと、いうような話があちこちからなされている訳ですよ。
そういう中でね、我上野村に落ちたらしいという事を言ってる、高原野菜の川上村のご婦人のコメントがあった。
日航機がおぼつかない様な飛び方で群馬の方へ入っていって、見えなくなったと思ったら煙が出てきたと、そう言ってるんですね。その後のテレビの放送は、全部、長野県の北相木村なんですよね。

しかし、北相木の方から、御座山という山があるんですが、そこに落ちたというような話を全然する人が出てこなかった。
もし、御座山あたりに落ちてるんならば、音が聞こえるとか、火が見えるとかいう事が解かるはずだと、それが解からないという事は、どうも北相木でも南相木でもなさそうだなと、地形複雑な所に落ちたと、そうすると地形が複雑だというのはですね、長野側よりも群馬側、さらに一層複雑なのは、埼玉の大滝村なんですよ。
そこで、段々と上野村に落ちたかな、大滝に落ちたかなという様な気持ちを持っておりました。 
段々時間がたってきて、夜の10時半頃だったと思いますかね、県警の本部長の河村さんから私に電話が掛かってきましてね、 『今、長野県警の本部長から私に電話が掛かってきて、長野側ではない、群馬という事になれば上野村だと思うので、明日午前5時に機動隊を1500人上野村に入れるから、ひとつ宜しく協力してくれ』と。
我々の住んでいる集落からですね、音も聞けない、見えない、遠い山奥であります。
ですから、上野村に落ちたと本部長から言われても、落ちた所自体は、掴んでもいなければ、それは実際にあそこだというものを何にも持たなかった、そういう状況で夜は深けていってしまうわけです。

そして、翌朝4時に役場に来ましたところ、ここ(村長室)に置いてあるテレビをすぐ点けておりましたところね、5時のニュースの頃ですよ、ヘリから映した燃えてる墜落地点の状態が映し出されたわけです。
それを見たときに私は 『あっ、これは、我上野村の神流川の源流の本谷の国有林の植林地だ』と。
何故、それが私にはわかったかというと、たまたま、私はその山のですよ、反対側に友達の持ってる山がありましてね、その友達に連れられて、反対側の山に登って植林している当時の御巣鷹の尾根を見た経験があったものですからね、『あそこだなぁ』という感じを持ったんです。

私は自分の小学校の同級生がですね、植林した時の責任者だったんですぐ電話入れて、 『おい、今のテレビ見たか?あそこは本谷だろ?』『そうだよ、あれはすげの沢だ』と言って、友達が具体的に場所を教えてくれたので自信を持って 『これは我上野村のすげの沢の尾根に日航機が墜落した』と。
こうなった以上は、あそこにまでその、機動隊やですよ、自衛隊12師団の方々が救助救難に行くということは、これは、ひだの様にですね、尾根があり沢があり、細かく峡谷の中の枝が分かれておりますからね、普通の人じゃ解かりません。
そこで、すぐ、消防団のしかも、奥の方の状況を知っている諸君にですね、途中まで出ておりましたからね、諸君は2人くらいに分かれてペアになって、機動隊や自衛隊の人たちを案内してあげてくれという指令を出して、救助救難の問題が始まるわけですよ。

中野:この役場がありますのが標高511m、御巣鷹の尾根というのは、上野村の中心からは30km程離れているんすね。

黒澤:そうです。御巣鷹山というのはですね、上野村の人の住んでいる集落、一番奥の方の集落からもですよ、見えない様な、もう、長野県、埼玉県の県境と接する神流川の最源流で。

中野:黒澤さんは、海軍兵学校を出て海軍飛行将校として、太平洋戦争中はゼロ戦のパイロットとして、戦ってこられました。日航機が御巣鷹に激突する前にダッチロール、操縦不能に陥って激突したということを聞きましたが、黒澤さん自身はそういうご経験おありですか?操縦不能、あるいは、大変操縦困難だった状態だったというのは。

黒澤:パイロットがですよ、操縦不能に陥るなんという事は、死ぬ時以外は殆ど体験しないと思いますよ。
私も他の所の故障は、体験しておりますけどね、私自身がそんな、操縦が出来なくなった、コントロールが利かなくなったという様な事にぶつかったことはありません。
舵を取ろうにも計器を使おうにも手がないですよね、あの場合は。エンジンだけでしょ?
だから、エンジンを全開にして機首を挙げるとか、または、多少の右左の機首を向けるとかいうぐらいの事は出来たが、まず、一切のコントロールは出来なかったと私は思いますよ。
一時的にエンジンが止まるとかですよ、または、あっちこっちがちょっと傷んだというような事はありましたよ。
だけど、上下左右、向きを変えることが出来ないという経験はないですよ。
だからね、パイロットはもう、本当に悩み苦しんで、おそらく何処へ降りるように出来たらいいかなというような気持ちはお持ちになったのでしょうが、それも、そっちに向けるわけには行かないんですからね。
それに、500人以上のお客様が乗っている、この人たちの命を失う様な事があっては絶対にならない、それなのに飛行機は言う事を利かない。
それは、もう本当にあれでしょうね、頭の中がカーッとしちゃって、普通の人だったら支離滅裂になる状況だったと思いますが、しかし、あのパイロットは冷静にお考えになって、エンジンを使って、それで多少なりとも飛行機の方向を思う方向に向けようという努力をされてる様に記録を読ませてもらってそういう感じを持ちますよ。
だから、それはもう、私自身で察するったって無理ですよね。
パイロットはそっちで夢中ですよね、ところが、乗っている人はですよ、落ちると言うことに予感を持ちながら何もする事が出来ないで30分もですよ、死ぬ事と憂える悩みと戦わなくちゃなりませんからね。
操縦桿を持っている人よりも何もする事がないからそればっかり考えているんだから。

救助救難が、13日から始まりましてね。8月13日から。
始まってそれが進んで1週間くらい経ったらですよ、遺体がどなたの遺体かわからない人がだいぶあるようだと。
その、葬送の責任は上野村が果たさなければいけない。
それまでは、救助救難の仕事を夢中でやっていて、それで一杯だった。
ところが、その後がまだあるという事になって、それに対する構えが段々、熟していくわけであります。

中野:明治32年に出来た法律、行路病人及び行路死亡人取り扱い法で、520人が亡くなった日航機の事件のうち、全遺体が確認された192人を除く方々、そういう方々の遺体は、上野村で永代供養をする義務があると、この法律によればなっているんですね。

黒澤:そうですよ。法律は行路死亡者の事、葬送の責任を負えと言っているが、法律の中には5百何十人ものですよ、多くの人が一辺に亡くなる事を想定していないです。
一人か二人の行路の死亡者を想定している。
そういう方々であったならばですよ、これはお寺の墓地の一隅に埋葬し、済んでしまうというケースが多いであろうと思います。
ところが、これだけの大事故で、これだけの大人数の方々の霊を弔うと言う事になれば、それは、あまり簡素に終わらせてしまうという事が出来る問題でもないし、他方、事故そのものの事を考えましてもね、事故の戒めの場としての使命をも、その葬送の責任の中において考えていかなければなるまい、そういう風に思いましたよ。
だから、もう、墓所どこにするか、また、御巣鷹の尾根を霊地としてですよ、永遠に保存する必要があるなぁという様な事は大体、すぐ考えなければいけない事だという風に気づきましたね。
10月の2日だったかな、これ以上、身元の識別が出来ないというご遺体が藤岡のお寺で荼毘にする為の出棺式をやったわけです。

中野:一部身元確認出来ただけの方、確認が出来なかった方が328柱ですか?

黒澤:そうですよ。藤岡における荼毘にふして、だが、まだまだご遺体が沢山あるという予測はたったんですが、それが、最終的にですよ、これ以後はもう、わからないから上野村の責任に移すという風に言われたのは、(昭和)60年の12月の20日ですからね。
そうして、その日に我々が受け取って前橋で出棺式をやって、荼毘に付さしていただき、それで、その夜は、前橋の群馬会館の祭壇にお骨を全部安置して、藤岡の分も安置して、翌日、日本航空による慰霊祭が行われ、それで、夕方ここに役場に全部の遺体をお引取りし、ここでお守りしたという時期があったわけです。
その時から、この方々の霊を慰める事、奉る事、納骨する事、等々の責任を果たす実際の行動を私どもが起こさなければならないことになる。

法律はですよ、上野村という地方公共団体が責任を持って葬送しろと決めてありますが、果たしてそれでいいかどうかという事を私は感じました。
というのは、この法律によると一般会計に葬送の費用を計上し、堂々と村が葬式やれ、または、年々の祭典をやれという風にこっちの法律じゃ決めておりますが、多分、上野村の出身者で戦場に行って亡くなった戦没者に対しましてはですね、そういう事はやっちゃいけない、という事でありますので、村民感情とあわせ考えた場合にはですよ、一般会計で毎年予算を組んで葬祭するという事は、ちょっと後々問題になるだろうなという風に考えましたので、これは上野村という法人とは別に法人を設けて、その法人にある程度の基金を持たせておいて、基金の果実によって年々再々のお祭、法要をやっていくべきだと判断し、その考え方に基づいて『慰霊の園』という法人を作ったわけであります。

それと同時に、その法人の中心である墓所をどこにするか、当然の事ながら、御巣鷹の尾根で昇天されたから、あそこのお奉りするのがいいんだ、という素朴な考え方もありましたけれども、御巣鷹の尾根にした場合には、あの用地が得られないと、あそこでは。
そういう問題もあります。同時に冬になったら雪が深くてお参りも出来ない、我々の後輩が『葬祭をしろ』と言われても非常に悩み苦しむ様な結果の種を私が蒔いとく様なもんだ、という反省もありました。
そういう事でなるべくお奉りをし、足しげく弔ってやれる、そういう村民の皆さんの行きやすい所がいい、そう思いまして、なるべく村の民家に近い所にその地を求めた。

一番いい候補地だと思って目を付けたのが今の中越の村山の丘というあそこでありまして、私は政府予算の関係もありまして23日上京する予定になっておりましたから、その際に資金の面について日本航空側と相談しよう、という腹を固めて東京へ行きました。
また、残った職員の諸君にはですよ、御巣鷹の尾根に登る道を作らなければならない、4km300(m)くらいですね、作るべき所があったわけです。
それには『全部国有林であること』『保安林であること』『国有林に道にする所を貸してもらうという問題』『保安林を解除してもらうという問題』の手筈が必要です。
道を作る為の設計図のアウトラインも作ってくれと言い渡しまして、東京へ行って金の問題で日本航空と話そうかと。

その時に日本航空の山路社長は 『10億ぐらい出したら、村長、出来るかね』いうお話をされました。
その時私は『だいたい12億あれば、何とかできる』と職員とともに考えていましたから、 『10億出して頂ければ、村もある程度出します、県も出してくれると言っています。
それから、亡くなった方々の属する大きな会社がいくつもありますから、浄財を募ればあと2億くらいは出来ると思うから、10億、日本航空が出してくれると言ったので、それで出来るでしょう』という事で、財源の問題は解決したわけです。
そういう財源的な面を一応解決して、それで、暮れに帰って来てみますというと、まだ、用地の問題が全然進んでおりません。

中野:この用地と言うのは?

黒澤:登る用地。

中野:登る?どこが入り口?

黒澤:道路。まず、その道の為の用地の問題が片が付いていない。
それと同時に慰霊の園を建設する用地の問題、まだ何処にという問題も決まっていない、そういう状況でした。
御巣鷹に登る方の道の問題は、道路の工事それ自身が、ああいう狭い峡谷沿いの道になります。
それを作ろうとするわけですが、まず、事故当時の高木社長さんが、弔問に、遺族の所にお出でになった時に遺族の方々は交々、 『我々の身内の亡くなったあの御巣鷹の尾根を観光地にされたんでは悲しいから、村長によく言ってくれ』と、 『あそこに自動車を上げて、笑いながら我々の身内が亡くなった所をね、眺める様な事をしないでくれ、と言ってくれ』と何度も何度も言われました。
私は、そういう中で、今度は永代供養をする我々の後輩の苦しみの事も考えなければならない。
そんな中で私は妥協案として、 『神流川沿いの2km300(m)は自動車で行ける道を作らせてくれ』と、 『あとの所は、危なくない程度に歩く道にして、自動車が上がらない道にします』、という事で出来たのが今の道ですが、さて、作ろうとしますとですよ、 『国有林から借りる問題』『保安林解除の問題』を早く解除しなければ、片付けなければどうにもならない。

中野:『保安林解除』というのは、どういう事なんでしょうか?

黒澤:あそこはですね、『保安林』と言って、木を切るのも許可を得なければ駄目だとかですよ、崩したり道を作るなんちゅう事も皆、許可がなければいけないわけですよ。
その為の許可を得る必要があります。
この許可はですよ、普通手続き上、1年くらい掛る問題ですからね、それを早くやってもらうという必要がありました。
それから、もう一つはですよ、神流川沿いの道なんですが、一度に2km300(m)の工事を開始しようと考えました。7つの業者に分注しました。
だけど、入り口がですね、一ヶ所しか無いんですから、簡単にブルトーザーとか入っていけない。
しかも、春3月まではですよ、土が凍っていて工事が出来ない。
4月から7月までに工事を終えなければならない。こういう制約がありました。
それでも、8月3日の慰霊祭までには道も出来た、それから、慰霊の園も出来た、という事は、多くの関係者の努力と、それから、土地を持っている人たちの協力の賜物だと思っていますよ。

中野:私、昨日、御巣鷹の尾根に登りました。
上野村の中心から20km、そこに御巣鷹の尾根に行く人たちの為の駐車場が作ってあります。
そこから歩いて、急な斜面を1時間。
御巣鷹の尾根の遭難の現場に黒澤さんの書になる『昇魂の碑、魂が昇る』昇魂の碑が建ててありました。
その左右に丁度、お宮の絵馬の様に昇魂の鈴が掛けてあって、遺族の方の言葉が書いてありました。
『今年が最後でしょう』と書いた遺族の方、『何年振りかで来ました』と書いた遺族の方、息子さん、息子の嫁、孫4人を失ったお母さんの筆になる『今、どうしてる?』と書いたもの。
沢山の鎮魂の鈴のメッセージが掛けてあります。その足で慰霊の園に参りました。
三角錐の石が建てられて、お参りする人の目をその三角錐の上に向けるとその延長線上に御巣鷹の尾根があると、視線の延長線上に御巣鷹の尾根があるという設計になっているという事をですね、ご案内下さった役場の今井良一さんに聞きました。


黒澤:あそこで手を合わせて拝めば、8km先には御巣鷹の尾根があるんだ、という風に説明しながら、初めての方にはお参りしてもらっているんです。

中野:心打たれたのは、広い慰霊の園の境内に草1本生えていない、チリ1つ落ちていない、実に静寂そのもの。
管理が行き届いているという事に感佩いたしました。
この管理についても、黒澤さん、村長さんは、大変心を砕いておられると伺いましたが。


黒澤:私どもはですよ、葬送・慰霊の真心を尽くしたい。
私ども上野村民と一緒になって、この上野村の天地自然に抱かれて安らかにお眠りくださいと言っているのは絵空事じゃない。
私どもは真心を持って、御霊をですね、奉って慰めたい。
それは、同時にまたですね、村民の気持ちを、本当に真心を示す1つの心の現われでもあるという風に思うわけです。
だから、基金の果実を多少使って、あそこの清掃等々をやって頂く人たちを常時置いて、それで、どなたがお出でになっても清らかな心になって、それで、亡くなられた人のお気持ちを察し申し上げて祈って頂きたい。
そういう風に努めている。
あれは上野村民の心の現われだという風にお受取り頂ければありがたいと思いますよ。

中野:あの悲しい事故の日から1年の歳月が流れて、旬日の内に1周年を迎え様としております8月3日に慰霊祭が新しく出来た慰霊の園で執り行われました。
慰霊式で黒澤さん、黒澤村長が式辞を読んでおられます。
『上野村は、身元識別不可能となったご遺体を法の定める所によって葬送すると共に、皆様の御霊をご遺族とともに永代供養する立場におかれる事になりました。
去る12月21日、ご遺骨を迎えて以来、どのようにして御霊を奉り、慰め、供養すべきかと思いを巡らせ、その式典を挙行する準備を進めて参りました。
皆様の御霊、願わくば天下りまして我等の意の存する所を汲み取り下さい。
上野村の天地は、人も山も川もこの1年喪に服する心でひたすら皆様の御霊を奉り、慰める道を考えて参りました。
そして、参拝に便利なこの丘を皆様の墓所と決め、納骨堂、慰霊塔中心にする霊園を建設しました。
これは、我々が子々孫々、孫子の代まで皆様の御霊を奉り、慰めて供養を忘れる事なき為であり、且つは、大事故の戒めを末代に伝えて、万人と共に空の安全を求める為であります。
上野村の皆は今、皆様の御霊をこの土地に奉り入れて厳かに祈ります。
願わくば、この地に心安らかに眠り、我等と共に上野村の天地に抱かれたまえ』と私、昨日、参りまして、この式辞の通りに上野村の皆さんが御霊を慰め、奉っておられると思いました。


黒澤:私はね、村民の皆さんと共に、我々は一人で生きているんじゃありませんと。
人様に助けて頂いて、それで生かして頂いているんだと。
だから、世に生きる以上、他人様の事にも思いをいたし、我々が出来る事は、社会の為に尽くし、働いてそれで、人生を送るべきだという事をですね、別な角度から説いている面もありますからね、そういう事が村民の皆さんの気持ちの中にもですね、私は相当、修養として積まれていると考えますので、そういう式辞の表現になったわけです。

中野:式辞の終わりに、『皆様の御霊と上野村の人たちの交わりが霊界、魂の世界とうつし世、現世とを遠く離れて始まった事を悲しく思います。
我々は御霊の存在を信じ、真心を持って皆様を供養申し上げます。
諸霊願わくば、安んじて眠りたまえ』と、昭和61年8月3日慰霊の園理事長黒澤丈夫の式辞が終わっておりますが、私たちは、8月12日の日航機遭難の事件の前後には、この御巣鷹の尾根の事を知りますけども、あとの360日は関心が無いままに過ぎておりますけども、ここに参りまして、上野村の皆さんが本当にあの事故で亡くなった方々の霊を弔っておられた事を心からすばらしい事だと、ここでわかりました。


黒澤:私どもは、御霊を奉り、慰めてあげるということが使命だと思っておりますが、同時にこの事がですよ、飛行機を飛ばす人にも、整備する人にも、重大な事故を起こさない為の戒めの天地がここにあるぞ、何時でもあそこで、運行も整備もしっかりやれ、という事を教えてるぞ、という風にですね、考えてもらいたいと思いますよ。
それには、我々が泉岳寺と同じ様にあそこを立派にお守りして、皆さんが厳粛な気持ちをお持ちいただける様な環境にしておく事が必要だと思いますね。
御巣鷹の尾根も本当に霊地としてですよ、お出でになったら『霊地に入ったんだな』という感情をですね、皆さんが持ってもらえるように整えておきたい、そういう風に思ってますよ。

中野:財団をお作りになって、建設費でその殆どをお使いになって、その残りを基金として永代供養の為に使っておられる。
最近のこの運用益が少ない時代にですね、大変ご苦労が多いと思いますが、今後どういう風に考えておられるのですか?


黒澤:当面はですね、来年の事なんですが、これは日航さんもある程度ご配慮頂けるという事ですし、我々も多少の浄財を出して、それで、今までと変わりの無い様な式典をあげていきたいと思います。
そういう中でですね、なるべく節約出来る部分は節約して、真心のこもった部分だけを残していくという風に努めればやっていけるんじゃないかと思いますよ。
この金利の安いのも永久ではないでしょうからね。
村民の皆さんがですよ、他人に尽くすという事の大切さを心得てくれてる、そういうふうに段々なって来たと私は思います。
そう考えているから、私が村長でなくなっても、この道を受け継いで必ず立派にですよ、使命を果たしていただけると思うのですよ。

中野:ありがとうございました。

心の時代、今朝は群馬県上野村の村長黒澤丈夫さんに『御巣鷹の尾根』をお話頂きました。
聞き手はラジオ深夜便心の時代制作グループの中野正之ディレクターでした。
明日は、黒澤さんに『長生きしてよかった村』をお話いただく予定です。

群馬県上野村のホームページより

 黒澤丈夫村長(1913年12月23日生)は2005年6月13日、10期目の任期を満了し退任されました。
 黒澤丈夫元村長は2011年12月22日、肺炎のため富岡市内の病院で死去されました。97歳でした。



黒沢丈夫氏の銅像
 村役場前に立つ、黒沢丈夫氏の
 銅像 (平成16年建立)

  
黒沢丈夫氏について(ウィキペディアより)
(戦後)上野村に戻った黒沢は、村人から戦犯呼ばわりされ、扱いは冷たかった。当初は妻子を前橋に残して、一人で農民生活を始めた。1955年(昭和30年)、群馬県議会議員選挙に立候補したが落選。しかしこの選挙以来周りの人たちの相談を受けるようになり、1965年(昭和40年)6月14日に上野村村長となった。しかし丈夫は村長就任早々、複数の問題に直面した。それは丼勘定による村財政の赤字であり、相次いで村外で起こった村人の犯罪行為であり、急激な過疎化であった。丈夫は村人の不評を買いながら緊縮財政を押し通し、道徳教育に力を入れた。産業振興にも力を入れ、イノブタ畜産・味噌作り・木工業などを次々に起こした。

1985年(昭和60年)8月12日夕刻、日本航空123便墜落事故が発生した。翌朝には墜落現場が上野村山中であることが判明した。上野村は、救援の自衛隊・機動隊および報道陣の受け入れ態勢に当たり、現地に消防団員を派遣した。この時の黒沢村長の指揮ぶりは、迅速適切で見事なものであったという。当時身元確認班長となった群馬県警の飯塚訓は、丈夫の有事に際しての落ち着いた対応や日航側と遺族側の双方に信頼される名村長ぶりについて言及し、遺族に対する優しい心遣いには、零戦で外地の露と消えた部下や戦友をどこか日航機の被害者にだぶらせているのではないかと感じたと記している。上野村では御巣鷹の尾根を霊地として守り、村の中心地に墓所「慰霊の園」を建設した。以後毎年、慰霊の園で慰霊祭が行われている。

1995年(平成7年)8月から4年間全国町村長会長として全国の地方自治の牽引役を務めるなど幅広く活躍した。2005年(平成17年)、91歳の時に墜落事故の犠牲者慰霊事業への参加が困難になったことを理由に、10期40年務めた村長の職から引退した。当時日本最高齢の首長となっていた。

      
 


 以下は、日航機墜落事故とは直接関係しませんが、黒澤丈夫氏を知る上で必要と考え、掲載しておきます。(サイト管理人)

「市町村の大規模合併に反論する」 黒澤丈夫 (上野村旧ホームページより)

 昨今、人口当たりの投資効果や都市的発想に捕われた考え方をする人達から、市町村を合併して、力の強い、人口の多い自治体をつくれとの声が高いが、私は、この合併論には、憲法に謳う、自治の 思想を無視する暴論として、反論せざるを得ない。
以下その理由を述べると、

 【1】 この合併を強行すれば、国土の約2分の1を占める山村や離島等に在住する国民は、自治に参加する立場を、大きく失うことになる。

 地方自治の主旨は、地域住民に身近な政治行政は、その地域の住民の意思に基づいて、自分達で執行させることに在るが、前記した人達の論拠に従って生まれる、新しい自治体は、市街地を中核とする市とならざるを得ず、その意思決定や執行は、多数決原理の下では、人口の多い市街地住民本位となり、人口の少ない山村や離島地域の住民の立場は軽視される結果を招くからである。

 これは、論理による推論ではない。

 我々が過去の市町村合併や農協、森林組合等の合併を通じて体験した結果によるもので、合併した地域の方々が軽視されて、一般に衰亡が早いのである。合併を叫ぶ人は、投資効果を説くが、山村離島等の住民は、自治の権限を奪われて、投資を求める声すら小さくさせられるのであるから、自治そのものを失うのである。合併論を叫ぶ人には、主張する合併の結果、国土の広大な地域で、自治権を失う国民が出ることを、考えてもらいたいのである。

 【2】 人口当たりの投資効果論や都市的発想による自治体合併論は、本来、国家の底辺社会の住民に、緊密に参加させる自治によって、きめ細かい政治行政をさせようとする、憲法に定める自治の思想と、相容れないところが多い。自治は、同一の自治社会に在住する人達が、連帯協力して実行するもので、地域住民相互の間に、同一自治体の住民であるとの連帯意識が在らねばならない。而してこの連帯意識は、同様な環境下に居て、相互に激しく交流する中から生まれるもので、単に名目上、同一自治体に居住するだけでは生まれにくく、比較的小さい地域社会の中に生まれるものである。遠く離れて住む、市街地と僻地の山村離島の住民に同じ連帯意識を持てと言っても一般には無理なのである。 又、地方自治は、住民が、己の属する自治体の政治行政の善悪に、利害を敏感に感じる範囲で行うべきもので、余り広大な地域や大人口下では、本来実行しにくいものなのである。このことは、つとに地方分権を主張された石橋湛山先生が、大正14年に社説の中で説いて居られる。参考にそれを記すと、『地方自治体にとって肝要な点は、その一体を成す比較的小なるにある。地域小にして、住民がその政治の善悪に利害を感ずること緊密に、従ってそこに住まっている者ならば、誰でも直ちにその政治の可否を判断することができ、同時にこれに関与し得る機会が多いから、地方自治体の政治は、真に住民自身が、自身のために、自身で行う政治たるを得る。』(石橋湛山評論集・岩波文庫)

 ここに私が、前述した合併論を暴論だという論拠がある。

 自治体に属する住民の一部に、自治に関与出来ない様な自治体を創出する合併は、全く自治を忘れた暴論である。

 【3】 大規模な自治体は、都道府県に於ける自治と大差なく、真に住民参加が出来る、国家の底辺を成す自治体とは成り得ない。住民が自治に関与出来る自治体には、前述してきたように、自ずから大きさに限度がある。従って、市町村数を大幅に少なくする様な合併論は、都道府県に国家の底辺の自治をせよと言うのと大同小異で、更に小さい自治体が、その中に必要となる。

【4】 投資効果は、人口当たりで求めるだけでは、解析不足だ。国家という概念の中には国土もあるのだから、国土面積当たりの投資効果論が在るべきである。国土なくして国民生活は在り得ないのに、人口だけを重視して国土を忘れた自治体論は、余りにも人に捕われて、人間生活を忘れた発想ではあるまいか。

 【5】 市町村の合併には、絶対に国が強制するものではなく、市町村住民の意思に委すべきである。
           以上

 著書に、「わが道これを貫く」、「道を求めて−憂国の七つの提言」、「過疎に挑む−わが山村哲学」、など
 
 

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