サイト管理人の1985年8月
英治さんの家での、日航機事故
サイトを立ち上げた祝部幸正が1985年8月、川上英治さんの
家で体験した日航機墜落事故、「生と死」の体験を記しておきます。 

★ 1970年結婚、よく似た2組の夫婦
 
川上英治さんは私より1年上、高校も同じ出雲産業高等学校。英治さんは機械科、私は工業化学科でした。高校を卒業すると英治さんは北九州市の八幡製鉄所に、私は島根で電電公社に就職しました。やがて私は広島市に転勤し、島根を離れました。
 そして1970年3月、申し合わせたように「出雲」で結婚しました。だからでしょうか、両夫婦の長男、長女は同級生、3人目だけが英治さんところは女の子、私のところは男の子でした。8月12日は英治さんところの次女と私のところの長男の誕生日でした。

★ 1985年8月12日夕食、日航機機影消える
 その日は月曜日でした。私の家では妻が2人の男の子を連れて広島の実家に里帰り、父は入院中で母が付き添いで病院に。私は松江市の勤務先から帰ると、留守番をしていた中学1年の娘と2人で夕食に着きました。野菜炒めを作り、コップの焼酎を傾けながらテレビ(NHK)に目をやっていました。7時半頃だったでしょうか、テレビの画面にテロップが流れました。「日航機、レーダーから機影消える」だったと思います。私は以前の羽田沖事故を思い浮かべ「また日航か」と思い、さほど気にとめませんでした。

★ そこへ電話のベルが
 突然、電話のベルが鳴りました。受話器を取ると、「いまテレビで日航機が消えたと言っているでしょう。あれに川上さんたちが乗っているので、気をつけて見ているように」。電話の主は出雲市の佐々木さんからでした。川上さんと一緒に北海道旅行に行った人から連絡があったと言うのです。

 タクシーを呼んで
 娘に川上さんがあの飛行機に乗っていることを話し、妻に「テレビで日航機が消えた、と言っているけど、川上さんたちが乗っているみたいだ。これから川上さんの家へ行くから、あんたも、明日帰るように」と電話をしておいて、タクシーを呼んだ。川上さん宅までは約2キロ、ポケットラジオのイヤーホンを耳に川上さんの家に向かった。
 川上さんの家の前を通ったが変わった様子はない。信じられず、タクシーを近くの友人の家に停め、そこから川上さんの家に電話をしてもらった。川上さんの家には大阪の英治さんの姉さんから電話が入っていると言う。

★ 「旅行を思い立ったは、英治かね、・・・」
 そこから歩いて川上さん宅へ向かった。静かで変わった様子もない。家の中もひっそりしていて、奥にキミエおばあさんと千春君、英治さんの姉妹2人の姿が見えた。部屋に上がると、おばあさんが、「まーじ、今度の旅行を思い立ったは、英治かね和ちゃんかね」、と尋ねられた。旅行にさえ出ていなければこんな事にならないのに、の思いがにじみ出ていた。
 テレビでは「墜落現場は群馬と長野の県境」と報じていて、千春君が学校で使っている地図帳を持ち出して見ていました。英治さんの姉妹は親戚に電話を掛けていました。

★ さわがしくなった家の中
 やがて親戚の人、それに川上さんの友人・知人など出入りが多くなり、家の中はざわついた。農家の玄関は自由に出入りが出来、都会とは違う。
 報道関係者も多く詰め掛け、4人の写真を求めました。英治さんの姉妹が奥の部屋から写真を持って出て、「持って行かないで下さい」、と言い玄関の畳の上に並べた。報道関係者はそれをカメラに収めたが、中には持ち去った者もいました。

 カワカミエイジ、・・・
 テレビは片仮名で乗客名簿を報じている。川上さん一家らしいものとして、「カワカミ エイジ」、「カワカミ フサコ」、「カワカミ エイイチ」、「カワカミ テツジ」、と伝えている。(後から分かったことだが、札幌から大阪に行くのに直通のチケットが取れず、羽田乗り継ぎのキャンセル待ちで、123便に搭乗していた)。
 情報が入らないまま時間が過ぎた。 「川上英治はどこにでもある名前だ」、「何かの間違いかも知れん」、「ひょっとして列車に乗っているかも知れん」、と皆無事を祈った。

 NHK松江放送局が
 10時前になってNHK松江のローカルニュースで、「事故を起こした日航機に島根県では、大社町の川上英治さん一家が乗っていたもよう」、と川上英治、和子、慶子、咲子と名前を報じました。
 テレビが報じると、近所の人たちが見舞いにやって来られました。遠くからの訪問者もふえ、中には仁多町から駆けつけた馬庭先生の姿もありました。
 12時を回った頃、NHKの取材陣4人が玄関に入って来ました。私は「NHK、あなたのところのニュースはおかしいではないか。東京からの放送は片仮名なのに、何でローカルで「大社町の・・・」となるのか。しかも広島からの放送(FK管中と言う)では「『松江放送局によると』と言っている。そんな報道があるのか。家族は乗っていなければ良いのにと祈っている時に、未確認情報は流すべきではない」、と苛立ちながら言いました。職員の1人が「確認は取ってあります」と言い、押し問答になりました。

 日付が変わって、13日に
 詳しい状況は分からず、11時を回る頃には1人、2人と帰って行かれ、日付が変わる頃には主な親戚、20人ほどがテレビの前に座っていました。日航から何の連絡、説明もなく、「一体何しているんだ」と皆は怒りました。
  日航から「4人が乗っていた」と電話連絡が入ったのは、2時を回った頃でした。 「日航は7時半、大阪発で家族を現地に向かわせる」と報道がありました。

 大社からは4人が行く
 日航と現地に向かう件で電話で話し合いが始まりました。7時半、大阪では間に合わず、出雲空港9時の便で向かうことになり、日航が座席を手配することになりました。出雲・東京便は東亜国内航空が運航しており、日航の説明では「座席は6席くらいは、いつもあるはず。空港で分かるようにしておく」ということでした。
 人数は大社から4人、大阪の姉さん、(和子さんの実家の)鹿児島から2人行くことになりました。大社からの人選の中でお婆さんが、「千春はどうするだ」と聞かれました。私は「千春君はもう中学2年、行かせるだわ」と言い、行くことになりました。

 4時を回っても、墜落現場分からず
 時計が4時を回るようになっても、「墜落現場は長野と群馬の県境」と言うだけでした。ただ、「厚木から飛んだ自衛隊機が現場上空に。それによると現場では火の手が上がって燃えている」、それも「5キロにわたって、あちこちで燃えている」と報じていました。またテレビは片仮名の乗客名簿を流していました。ただ、この頃になると50音順に整理して報道されました。
 家に残した娘のことも心配になり、一度帰ることにし、赤塚の小野の叔父さんを途中まで乗せてあげ、家に帰って横になりました。

 墜落現場、テレビが映す、しかし機体は
 横になっても目が合わず、じっとしておれない気持ちで、布団をたたむと川上さんの家に向かいました。6時半頃でした。多々納の叔父さんが小さなバックを提げて来ておられました。
 間もなく、テレビが現場上空からの映像を映しだしました。うすい煙が幾筋も立ち昇る中、その中心の山の斜面に「JAL」の文字が書かれた白いものが見えました。「アッ、飛行機の羽だ」、飛行機の羽(後に左主翼と分かる)がちぎれて落ちている。煙と羽、他には何も見当たらない。「アー、もう駄目だ」、影も姿もない。

 「これじゃ、顔も分からんかも知れんね」
 飛行機の形はどこにも見えません。「これじゃ、人の形も無いでね、顔も分からんでね。そのつもりで行かれんと、いけんね」。多々納の叔父さんにそう言って送り出しました。多々納の若い人が運転をして、千春君も黙って車に乗り出発しました。
 配られた新聞には1面で、「日航ジャンボ機不明」を伝え、現場で火の手が上がっている」と伝えていました。「乗員乗客524人、全員絶望」と伝えていました。

 それでも、「生きていて・・・」
 8時を回ると、見舞いの人が来られました。座敷に置いたテレビを囲んで親戚の者で見ていました。「現場に人影は1人も見当たらない」と伝えていました。私たちは、「あれでは、なぁー・・・」とテレビを見ながらため息をついていました。それでも「何とか生きていてくれ」と祈る気持ちでした。

 テレビが「生存者がいた」と報じる、しかし
 余り情報がない中で、テレビが新しいニュースとして、「生存者がいたようだ」と伝えました。「3人が生存していて、救助されている」、「女性4人だ」とも伝え、その他「男の子1人も救助されているようだ」と伝え、助けられた人の名前を報じた。しかし川上の名前は出なかった。
 「ほぅ、助かった者がおったんか、あげな中で」、と誰かが言った。川上の名前が出ずがっかりした。それでも生きていた者がいた、まだ救助活動が行われているようだから、「ひょっとして」、皆そう思っていた。川上の名前は出てこない。皆静かになった。

 私は電話番をしていた、そこへ
 私は電話番をしていた。この日も暑い日になっていた。そこへ有線放送電話のベルが鳴った。受話器を取り、「ハイッ、川上ですが」、「○○です。慶子ちゃんがテレビに映っています」。私は事故の報道で、写真でも映しているかと思いました。「慶子ちゃんの乗った飛行機が事故でね・・・」、「慶子ちゃんが今、テレビで助けられて、テレビに映っている」、「エッ」半信半疑でした。「あなたの名前は」、「クルマ エリコです」、「ありがとう」と受話器を置いて腕時計を見ました。

 この時間、「ニュースはフジテレビだ」
 時計は11半を回ったところでした。「この時間は」と頭の中で考えました。「ニュース、フジ(CX)だ、山陰中央テレビ(TSK)だ」。私はNTTでテレビ中継・運用の仕事をしていて、番組が頭に入っていました。
 テレビはNHKの特番を映していました。「慶子ちゃんが映っちょうと、助けられちょうと」、「TSK、山陰中央テレビに切り替えて」。テレビのチャンネルはプッシュボタンになっていました。誰かが「××番だ」と言ってチャンネルを切り替えました。





サイト管理人は介護保険・要支援2、リハビリに通いながら、書い
ています。個人情報に配慮しながら、当時の記録(メモ)を元に書
いており、内容が抽象的になる部分があることを、ご理解下さい。
                          (2012年3月)






川上英治さん、和子さん、咲子ちゃん、3人は日航機墜落事故の犠牲となり帰らぬ人となりました。
川上英治さん(41歳)和子さん(39歳)咲子ちゃん(7歳)
日航機墜落事故の犠牲となり帰らぬ人となりました


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